「罪」と「罰」は存在するのか、しないのか。
−大駱駝艦・天賦典式「罪と罰」−観劇雑記
今日は、麿赤兒さん率いる舞踏集団・大駱駝艦の新作《大駱駝艦・天賦典式『罪と罰』》の国立劇場公演初日。
週末のたった2日間のみの舞台ですが、観に行けて幸せ(^ ^)
ものすごいエネルギーで、いろんな疲れや日常感がふっとびました(笑)。
淑女のみなさま、こんばんは。
麿赤兒さん率いる舞踏集団・大駱駝艦の新作《大駱駝艦・天賦典式『罪と罰』》。
麿さん渾身の新作舞台、白塗りファンとしては、これを観ないことには始まりません。
以前、“老いの美学”というテーマで、麿さんには何度か取材させていただいたことがあります。
その時も、年齢を経て全く衰えることのない色気と肉体美に圧倒されることしきりだったのですが、今回の舞台での、ますますパワーアップした“をどり”とストーリー性を感じる展開に、老いてなお精神と肉体を磨き続けることで、常人ではなし得ない境地にたどり着くのだなーと、改めて思った次第です。
今回の舞台の演目は、『罪と罰』。
タイトルだけでもかなりソソられます。
が、例のごとく、どの公演案内を見ても、具体的なストーリーなどは書いてありません。
取材の際、ついつい『今回の公演で伝えたいことはどんなことなのでしょう?』なんていう野暮な質問をしてしまう私。
麿さんが『観て、その人が感じたままのこと、それでいいんです』というようなことをおっしゃっていたのを思い出します。
そんなわけで、ここから先は観劇後の興奮醒めやらぬ私の勝手な妄想です。
明日が千秋楽ではありますが、これから観に行く方がもしいらしたら、以降の文章はすっ飛ばしてくださいね。
映画や他の舞台でも、俳優さん(怪優さん!?)としても大活躍の麿さんですが、真骨頂はやはりご自身で率いる大駱駝艦の“をどり”の舞台。
まだ観たことがない、という人は、是非一度、観に行ってみてください。
−大駱駝艦・天賦典式「罪と罰」−
〜ストーリー展開(と思ったもの)と所感〜
精神世界における覚醒・恐怖と怯懦の物語。
黒い衣装が罪の姿、白い衣装の罰の姿。
舞台の上部で左右に揺れる時計の振り子は止まることなく、
現世を生きる時間の流れはずっと止まることなく時を刻み続けます。
麿さん演じる狂人は老いてベッドにくくりつけられ、身じろぎもしません。
けれど、そのベッドの下では彼の青年時代の幻影と思わしき青年が罪にのたうつ姿が。
たくさんの男女・人間たちの姿。
それぞれの人がそれぞれの時を刻んで、舞台はぐるぐる、ぐるぐる周り続けます。
それはまるで輪廻する永劫の罪と罰。
回転が止まり、老人の過去の姿であろう青年の罪の物語が断片的に描かれます。
二人の女。男女の諍い。生まれでた小さな女の子。
罰は罪に寄り添い、常に彼と表裏一体、影のように寄り添って離れてはくれません。
快楽の果てに罪悪感として肥大化した罰は、膨らみすぎた白い風船のように、いつ彈けるともわからない切迫感で青年を追い詰めていきます。
恐怖と怯えに取り憑かれ、やがて精神の暗闇に沈み込み微動だにしなくなった青年。
彼の時間が止まり、ひとり取り残されても、現実の時間はとまることなくまた、ぐるぐるぐるぐると廻り続けます。
現実世界と精神世界、生きている人間と時間の止まった人間が並行して描かれるカオスの中。
いつしか青年の前に静かに銃が置かれます。
ぐるぐると廻り続けていた時間の中から、罰に縛られ、精神を病んだ老人が起き上がり、自縛の縄を振り切るように銃を手にするのです。
老人は、過去の自分である青年を苦しめていた白い風船を自らの手で射撃。
白い風船は弾け、青年の覚醒とともに物語はフィナーレへ。
白い麿さんにあやつり人形にされていた黒い麿さんが、自らを縛っていたものを断ち切るシーンの演出が印象的。
それで本当に救いになったのか、罪と罰は消えたのか……
それとも、そもそも存在しなかったものなのか……。
余韻の残る舞踏劇。
考えるというより、圧倒され、感じることを楽しむ舞台でした。
↑『完本・麿赤兒自伝ー憂き世戯れて候』麿赤兒/著
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昨年、麿さんの自叙伝の文庫版が中公文庫さんより出ていたようです。
60年代アングラ舞踏〜現在の世界的な活躍まで、麿さんの衰えぬパワーはどこからくるのか……。
こちらも是非、チェックしてみてくださいね〜♪