海の底で結ばれる、妖かしの男女の物語
文学から紐解くSM―泉鏡花『海神別荘』
SMの女王様、早川舞さんの連載第二弾がスタートします☆
様々な文学作品の中に密やかに描かれる、支配・被支配の美しい関係値。
独特の「美」の基準で紐解く文学レビュー、どうぞお愉しみくださいませ。
泉鏡花『海神別荘』
「今まで触れた文学の中で、いちばんSM観に影響を与えた作品を教えてください」といわれたら、私はまずこの戯曲『海神別荘』を挙げます。
谷崎潤一郎でも江戸川乱歩でも三島由紀夫でも、ましてや団鬼六でもなく泉鏡花作品です。
明治時代の文人・泉鏡花は怪奇幻想小説の旗手ですが、谷崎潤一郎と並ぶ女性崇拝志向の持ち主でもあります。
しかし鏡花の女性崇拝は、谷崎に比べると執着といっていいほど母性や純愛を強く求めているように思います。
それらを極端なまでに求めすぎた結果、もはや鏡花文学の女性はいわゆる「女」ではないのでは、女という形をとった例えば神仏だとか、何か崇高なものの化身なのでは……という感すらあるほどです。
それが結果的に、彼独自の、誰の追随も許さない怪奇幻想小説王国を築くことになったのか、それともその怪奇幻想小説王国に女の姿かたちを持つ神仏が登場することになったのか。卵が先か鶏が先かわからないところはあります。
ともあれ、鏡花が描く女性像には、彼が10歳のときに死別した、能の太鼓師の娘だった母の面影が大いに影響していることは間違いないようです。
過剰なまでに幻想的で耽美な世界観設定の中で、鏡花作品の女性たちの多くは悲劇に見舞われながらも凛然と美しく振る舞います。
さて、話を戻しまして『海神別荘』。
⇡1994年1月、銀座セゾン劇場で上演された『海神別荘』のパンフレット。神保町の古本屋で購入。高校時代、このビジュアル見たさに、ポスターの貼ってあったコンビニに用もないのに通ったものです。
個人的なことを申し上げますと、この戯曲は筆者が泉鏡花作品に触れるようになったきっかけです。
1994年、坂東玉三郎さん演出、宮沢りえさん主演で舞台化されたことがあったのですが、当時高校生だった私は町で偶然見かけたポスターに目を奪われました。
美術とデザイン担当は天野喜孝さん。
彼ならではの美の極致を表現しきっていたそのポスターは、田舎の女子高生に凄まじい衝撃を与えました。
田舎なだけに、実際の舞台を観に行くことは結局叶いませんでしたが、「ならばせめて原作だけでも読んでみよう」と泉鏡花作品に手を出したのでした。
鏡花作品は、ストーリーそのものより、イメージやシーンのほうがより強く訴えかけてくるような、起承転結らしい起承転結がない作品も多く、まさに「それまで自分がうすぼんやり好きだと感じていたもの」でした。ついでにいうと、文章の独特の難解さもほどよく中二病心を満たしてくれました。
⇡こちらは2000年3月に日生劇場にて上演されたバージョンのパンフレット。坂東玉三郎さんは市川新之助(海老蔵)さんを起用して『天守物語』なども手がけています。海老蔵さんの凄みのある色気が、鏡花世界の美男子にハマるんですよね……。
取り立てて読書好きではなくても、「これだけは何度も読み返してしまう」という本なり作品なりはあると思います。私にとって『海神別荘』は今もそんな作品です。頻度は多くないのですが、「三年ぶり五回目」みたいな甲子園出場校みたいな読み方をしています。
とくに、「これはSMじゃないか!」と発見してからは、それまでとは違った味わい方をするようになりました。昔はひらすらロマンティックで絢爛で、しかしほの暗い、そんな雰囲気を求めて読んでいたのですが、今はもうSMの話だとしか思えません。昔の、SMをよく知らなかった頃の読み方ももう一度してみたいですが……。
物語は、海底の御殿に棲む海神の「公子」と、彼への人身御供として沈められることになった「美女」との恋愛譚です。
美女は親に裏切られたことを嘆き悲しみながら、護衛に囲まれて、公子や海の妖たちが待つ御殿に向かいます。
公子は御殿で、美女がやってくる様子を大きな鏡に映して眺めながら、博士に地上のことを調べさせたり、侍女にすごろくをさせたり、鮫に襲われる侍女を助けてみたりと、まあわりとのんびりと待っています。
物語の終盤で、公子と美女はやっと対面します。しかしながら美女は公子に心を開かず、毅然と公子を拒絶します。姿かたちが人間とは変わってしまったと知らされてさえ、いつまでも地上を思って悲しむ美女に公子はついに怒り、斬りつけますが、その瞬間に美女の心が一変し、二人は結ばれます。
物語に動きらしい動きがあるのは終盤だけ。しかも、突然心変わりする美女の心境が細かに描かれるわけでもありません。こちらとしては「えっ、そんなにいきなりデレちゃうの?」と、拍子抜けします。
SMを知る前は、ここのところが不満でした。不思議といったほうがいいかもしれない。わからないからこそ、いつまでも引っかかっていました。
ですが今は、人がMになるときの心情をよく表しているなと感心します。いえ、Mというとちょっと幅が狭すぎる。人が何かに心を奪われ、傾倒する瞬間といったほうがより正しいかもしれません。
海神の公子も公子の御殿も、海神や妖たちの富も力も、地上で細々と漁をして暮らす人間たちにとっては圧倒的です。この圧倒的というところがポイントです。
海底の御殿は、
「森厳藍碧なる琅※(「王+干」、第3水準1-87-83)殿裡」
であり、そこにある調度品も、
「大隋円形の白き琅※(「王+干」、第3水準1-87-83)の、沈みたる光沢を帯べる卓子、上段の中央にあり。枝のままなる見事なる珊瑚の椅子、紅白二脚、紅きは花のごとく、白きは霞のごとき……」
と言葉を尽くされて語られます。
さらに公子は「結納」として、美女が海底に送られる前、彼女の父親に数千から数万に及ぶ魚介のほか、
「月の真珠、花の真珠、雪の真珠、いずれも一寸の球三十三粒(りゅう)、八分の珠百五粒、紅宝玉三十顆(か)、大さ鶴の卵、粒を揃えて、これは碧瑪瑙の盆に装り、緑宝玉、三百顆、孔雀の尾の渦巻の数に合せ、紫の瑠璃の台、五色に透いて輝きまする鰐の皮三十六枚……」
まだまだ続きますが、ざっとこんなところを贈っています。
また公子自身も武勇の持ち主で、侍女の一人が鮫に攫われかけたときにはみずから鎧を着込み、救出に向かいます。鮫は公子の姿を見ただけで逃げ出してしまいました。
本作の大方はこんなふうに、鏡花作品の究極ともいえる筆致で、ト書き、登場人物の台詞ともに海底の「すごさ」をひたすら語ります。読み物として退屈といえば退屈なんですが、次から次へと現れるイメージの奔流は圧巻です。
さらに公子は、人の内面の美にも触れます。博士から地上のことを聞いた公子は、恋に生き、そのために罪を得て処刑されながらも、平穏に老いさらばえず恋に死ぬことができた「八百屋お七」の姿を理想だと話します。これもまた鏡花イズムをよく表した、純愛が行き過ぎて怪奇ですらある極端な恋愛観です。
こういった場面が続いた最後に、ついに公子は美女を殺そうとします。いかにも容易そうに。二者の力の差を見せつける、これ以上ない象徴ともいえる場面です。
人が何かに心酔するようになるためには、長い時間は必要ないと私は思っています。それはむしろ、ごく短時間に起きることではないかと。圧倒的な力に一瞬のうちに攫われて翻る人の心のダイナミズムを、美女の心変わりのシーンは描いているのでしょう。
SMにも似たところがあります。どんな方法であっても一方的に力を振るって、差を見せつけて、相手に「この人には絶対に叶わない、抵抗できない」と、たとえそのプレイの間だけでも思わせた瞬間に、ふっとMのスイッチが入るんです。
物語が少し戻りますが、御殿に向かう美女を見て公子がこう話すシーンがあります。
「私の領分に入った女の顔は、白い玉が月の光に包まれたと同一(おなじ)に、いよいよ清い。眉は美しく、瞳は澄み、唇の紅は冴えて、いささかも窶れない。憂えておらん。清らかな衣を着、新(あらた)に梳(くしけず)って、花に露の点滴る装して、馬に騎した姿は、かの国の花野の丈を、錦の山の懐(ふところ)に抽(ぬ)く……歩行より、車より、駕籠に乗ったより、一層鮮麗なものだと思う」
もともと美しく気高い人が、もはや異形の域にまで達するほどの圧倒的な世界で新たに覚醒する。その瞬間に心を揺さぶられたくて、私は何度も『海神別荘』を読んでいるのだと思います。
〈今回取り上げた書籍はこちら〉
「海神別荘・他二篇 (岩波文庫)」
https://www.amazon.co.jp/海神別荘・他二篇-岩波文庫-泉-鏡花/dp/4003127153
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