国を賭けた恋と、見守る女の憂鬱
神々と寝た女 ~逢魔が時の過ぎぬ間に Vol.2 古事記・シタテルヒメとアメノサグメ
古代、天の神が降臨し、地上の神々から日本の大地を譲り受けたという「国譲り」の神話。
その中には多くの神と、それに対峙する人々との関わり合いが描かれます。
天の神の使者として派遣された天雉彦(アメノワカヒコ)と、地上の大国主の姫、下照姫(シタテルヒメ)との悲恋は、昔から人々に親しまれた物語。
その中には、その恋を見守り、葛藤に苛まれたもう一人の女の物語がありました。
「天の神が棲む高天ヶ原に比べれば、このような田舎は窮屈かもしれないけど」
ワカヒコに用意された宮へと夜道を案内しながら、シタテルヒメは言った。
「いえ、そんなことは」
言葉少なに応じたワカヒコに、シタテルヒメは笑顔を向けた。
褐色の肌が、手に持った灯りを照り返して輝くようだった。
「ワカヒコ様は、物静かな方なのね」
「……え?」
「神々の使者だと聞き、どんな偉そうなお方が来るのかと、身構えてたんですけど」
ワカヒコのために用意された宮の入り口へと着き、シタテルヒメは戸口を開けた。
そしてワカヒコの顔を覗き込み、言った。
「……退屈でしたら、お部屋に伺いますからね」
「……え」
赤くなるワカヒコを見て、シタテルヒメはまた笑った。
「天照の使者様は、ずいぶん可愛らしいのですね」
シタテルヒメはそう言って朗らかに笑い、立ち去った。
「……人の子の女は、随分率直なのだな」
その後ろ姿を眺めながら、ワカヒコは呟いた。
その呟きに応えるように、闇の中からサグメが姿を現し、言う。
「……お気を付けください。土地の者にほだされてはなりません」
「わかっているさ」
ワカヒコはそう言って、宮の中へと入っていった。
「……ええ、わかってはいるのでしょうね」
サグメはその苛立ちを、闇の中へと投げかけるように呟いた。
* * *
それからしばらく、ワカヒコとサグメは出雲の国に滞在を続けていた。
大国主との交渉はなかなか進まなかった。
忙しさを理由に、大国主は中々交渉の場に現れず、時が過ぎていった。
ある夜、ワカヒコの滞在する宮から、出る人影があった。
「……そこの人、そなたは?」
闇の中から鋭い声がかかり、その人影が足を止めた。
差し向けられた灯りの中に、褐色の艶やかな肌が浮かび上がる。
「……やはりあなたでしたか、シタテルヒメ」
闇の中から歩み出たサグメが、シタテルヒメに声をかけた。
「あら、サグメ様。こんばんは」
悪びれる様子もなく、朗らかに答えるシタテルヒメに、サグメは苛立った。
「ワカヒコ様をたぶらかし、取り込んで交渉を有利に進めるため、その身体さえ使うとは。やはりここの民は、野卑たることこの上ないな」
「……え?」
サグメに問い詰められ、シタテルヒメは一瞬きょとんとした後、笑い出した。
「なにがおかしい!」
「だってそんなこと、考えたこともなかったから」
シタテルヒメは笑うのをやめ、サグメを見据えて言った。
「わたしはワカヒコ様に会いに来ただけ。国のことは関係ないの」
「そのような戯言に騙されると思うか!」
「……信じてもらえないのね」
「当たり前であろう。お前がワカヒコ様に近づく理由が、他にあるか!」
「ありますとも」
シタテルヒメは、まっすぐにサグメを見返した。サグメの持つ灯りが、その瞳の中で燃えていた。息を呑むサグメに、シタテルヒメは言った。
「……ワカヒコ様を初めて見たとき、美しいお方と思った。その眼で見つめられ、その腕に抱かれたいと思った。例えお父様やこの地の民のためであったとしても、そう思わない相手には抱かれません」
「なにを……!」
「サグメ様も女ならば、わかるでしょう? 愛は秩序の中からは生まれない」
シタテルヒメはサグメのもとへ歩み寄った。
サグメは灯りを持っていない方の手を、短剣の束へとかけていた。
「わたしを殺しますか? それもいいですね」
半歩の距離まで近づいたシタテルヒメに、しかし、サグメはその短剣を抜くことが出来ずにいた。
「太陽のもとで木々と過ごし、月の下で人を愛す。それが私たち、大地の民の生き方です。生きるのも死ぬのも、すべてその結果に過ぎないの。ワカヒコ様を愛して死ぬのなら、それでもいい」
シタテルヒメの黄金色の瞳を、サグメは間近で見た。もはや短剣に手をかけていたことさえ忘れ、サグメはその瞳に目を奪われていた。
「……よかったら今度、一緒に湖にでも出かけましょう。今夜はこれで」
シタテルヒメは踵を返し、夜闇の中へと立ち去って行った。
サグメはその姿が完全に溶けるまで見つめていたが、ふと、短剣の束にかけたままだった手に気が付き、その手を下げた。
サグメの中で、苛立ちが戸惑いへと変わっていた。