せめて、この恋とステージが終わるまで。
Waiting Bar ~グラスの中の風景~ Part1 「ウォッカトニック」@New York Bar(Park Hyatt Tokyo)
地上41階にあるこのBarは、映画「ロスト イン トランスレーション」(※1)の舞台として有名だ。
そこに描かれている日本の描写には違和感を感じつつも、ストーリーは悪くないと思った。
“東京”とは似て非なる、もうひとつの”TOKYO”。
今でも主演のビル・マーレイが座った席(※2)で飲みたがる人が絶えないらしい。
私の彼はここでピアノを弾いている。かく言う私もピアニストだ。
彼とは私が作曲した映画音楽のレコーディングで知り合った。
その時、私はプロデュースに徹したくてピアノの演奏をスタジオミュージシャンに頼んだのだけれど、そこで偶然ブッキングされたのが彼だった。
彼のピアノの演奏は、驚くほど私のスタイルに似ていた。
「この人とは感性が全く同じに違いない。」そう思わせるくらい私と同じ音がした。
そして、彼と逢う度にその予感は確信に変わっていった。
全く同じ感性、同じリズム……。
そして今、私の化身は、このバーでピアノを弾いてる。
「ロスト イン トランスレーション」で描かれていたように、寄り添い合うべき者同士が”ディスコミュニケーション”(※3)に陥るのは辛い。
けれど、あまりにお互いを分かり合い過ぎるのも、それはそれで息が詰まる。
だから最近は私たちはお互い、どちらからともなく距離をおいていた。
珍しく「ちょっと聴きに来ないか?」と言われ、久しぶりに彼のピアノを聴きに来た。
今日で最後になるだろうという予感と共に……。
彼はスタンダードジャズを演奏している。
「But Not For Me」「’S Wonderful」
彼のピアノトリオに合わせて白人の女性ヴォーカリストが訥々と歌っている。
バンドの後ろはガラス張りになっていて東京の夜景が映し出されている。
果てしないビルの明かり、赤い点滅照明、星の見えない空。
後、数曲……。
0時過ぎには、彼の今日のステージは終わるはずだ。
スカーレット・ヨハンソン(※4)を気取って”ウォッカ トニック”(※5)を飲みながら彼のステージが終わるのを待つ。
彼はあのヴォーカリストと寝たことがあるのかな……。
あの映画の影響か
そんな思いがふと脳裏をよぎる。
それにしても、彼のピアノを聴いていると、まるで私自身があのステージで演奏している様にさえ思う。
一緒にいると同じ事を思いついて同時に声に出したり、ビールを飲みたいなと思って買ってきたら彼も同じものを買ってきたり、朝、全く同じタイミングで目が覚めたり……
最初のうちはそれもちょっとした嬉しい偶然のように思えていたけれど、最近はそういった出来事自体に違和感を感じる様になってしまった。
まるで、出逢うはずのない、不吉なドッペルゲンガーを見てしまったかのように……。
「このステージが終わり、ほんの少し言葉を交わしたら、もう彼に逢うこともないのかもしれない。」
“ウォッカトニック”を飲みながらそんな事を考えるけれど、なぜか悲しくもならない。
きっとこの瞬間、彼も同じように考えているから。
最後の曲「Someone to watch over me」が終わった。
彼がいつもより優しい顔をしてこちらに歩いてくる。
作者注
「ロスト イン トランスレーション」(※1)
東京を舞台に孤独なハリウッド・スター(ビル・マーレイ)と、孤独な人妻(スカーレット・ヨハンソン)の出会いと別れを描いた映画。監督のソフィア・コッポラはこの映画で一躍アメリカの最も注目される監督の一人になりました。この後、映画「マリー・アントワネット」を監督。因みに「ゴッドファーザー」や「スターウォーズ」のも出演している女優でもあります。
この映画「ロスト イン トランスレーション」は2004年アカデミー脚本賞を受賞しています。
「主演のビル・マーレイが座った席」(※2)
映画「ロスト イン トランスレーション」は新宿のホテル“Park Hyatt Tokyo”が主な舞台になっています。特に最上階にあるバー「New York Bar」のシーンは有名。今でも主演のビル・マーレイが座ったカウンター席でウィスキーを飲みたいというリクエストは多いとか。
「ディスコミュニケーション」(※3)
本来は”miscommunication”が正しい英語なのかもしれませんが、この和製英語、いつかグローバルスタンダードな言葉になる様な気がします。
「スカーレット・ヨハンソン」(※4)
映画「ロスト イン トランスレーション」の主演女優。孤独なアメリカ人の人妻を演じました。今や「2016年、史上最も興業収益を上げた俳優・女優ランキング」で女優として第1位を獲得したビッグスターに成長しました。
「ウォッカ トニック」(※5)
そのスカーレット・ヨハンソン演じる孤独な人妻が「New York Bar」でオーダーするのがウォッカ トニック。
文字通りウォッカとトニックウォーターで作るシンプルなカクテル。ジン トニックの名前が通っていますがウォッカトニックの方がすっきりしています。「ウォッカ トニック グレーグースで。」とオーダーするとちょっとカッコいいです。
About Music
この物語では映画「ロスト イン トランスレーション」と同様、ピアノトリオにヴォーカルというバンドが登場しますが、ここでレコメンドしたいのはジャズヴォーカルのレジェンド“エラ・フィッツジェラルド”のアルバム「Ella Fitzgerald Sings the George and Ira Gershwin Songbook」。
エラが名プロデューサー、ネルソン・リドルによるオーケストラアレンジをバックにジョージ・ガーシュインの名曲を歌った1959年の名盤。
孤児としての生活から世界一のジャズヴォーカリストに上り詰めた波乱万丈の人生がエラの声に深みを与えているのは確か。この時代、黒人ジャズミュージシャンの音楽にはどんなにロマンティックな曲であってもその中に深い闇が見いだされる……、それがどうしようもない魅力となっています。
https://open.spotify.com/user/masahironakawaki/playlist/4lgX4Gxufvjzx03j0DvAus
※こちらの試聴にはSpotifyへの登録が必要になります。